2015年08月

http://mainichi.jp/shimen/news/20150827ddm041010085000c.html

毎日新聞 2015年08月27日 東京朝刊より無断転載

参院審議中の安全保障関連法案を巡り、廃案を求める声明を発表するなどした全国の大学の有志が26日、東京都内で合同記者会見を開き、「安倍政権にくさびを打ち込むために連帯を止めてはならない」などと訴えた。

 「安全保障関連法案に反対する学者の会」によると、教職員や学生ら有志が法案反対の意思を表明した大学は同日現在で100以上の大学に上り、うち約80大学の約250人が会見に出席した。

 広島大の河西英通教授(比較日本文化学)は「これだけの大学人の連帯があれば、最終的な勝利を勝ち取ることができると確信している」と話し、早稲田大の後藤雄介教授(西洋史)は「この運動をさらに広げていく。『戦争法案』廃案まで頑張っていきたい」と力を込めた。

 呼びかけ人の一人、学習院大の佐藤学教授(教育学)は「衆院の強行採決で運動が沈静化すると思われたが逆だった。危機感を抱いている人が多いことの表れ」と語った。会見後、教職員らは声明文を持って参院議員会館を回り廃案を要請した。

 「学者の会」によると、同会に賛同する研究者は26日現在、計1万3507人に上る。【川畑さおり、樋岡徹也】

http://mainichi.jp/shimen/news/20150827ddm041010087000c.html


以下 毎日新聞 2015年08月27日 東京朝刊より無断転載

参院審議中の安全保障関連法案に反対する弁護士や大学教授、市民計約4000人(主催者発表)が26日、東京・日比谷で集会を開き、周辺をパレードして廃案を訴えた。集会に先立つ記者会見には主催者の日本弁護士連合会の歴代会長や憲法学者らとともに、元最高裁判事や元内閣法制局長官も出席して法案の問題点を指摘した。

 元最高裁判事の浜田邦夫氏(79)は「法案は違憲というだけでなく、国民の声を無視しているという意味でも非常に問題がある」と批判した。9歳の時に終戦を迎えた自身の戦争体験にも触れ「ぜひ、時の政権に考え直してもらいたい」と述べた。

 元内閣法制局長官の大森政輔氏(78)と宮崎礼壹(れいいち)氏(70)も同席した。大森氏は「廃案」と書かれたプラカードを胸に掲げ、「心の中からこのように考えている」と力を込めた。宮崎氏も「ちょっぴりであろうとたっぷりであろうと、憲法9条の下では集団的自衛権の行使ができないというのは一貫した政府の確定解釈だった」と強調した。【和田武士】

http://blogos.com/article/129897/

以下無断複写

一番会いたくない相手と とうとう 会うハメになった―

 原子力規制委員会の田中俊一委員長が、きょう、泉田裕彦氏と会談した。新潟県知事ではなく全国知事会・防災委員長(※)としての泉田氏とである。

 泉田知事は「住民の避難対策が不十分なままの原発再稼働はありえない」として田中委員長に面談を求めていた。原子力規制庁の発足直後からだから3年越しとなる。

 しかし田中委員長は、避難対策は自治体が決めること、として面談を断り続けてきた。

 経産省資源エネルギー庁出身で、原子力行政の手の内を知る泉田知事は手強い。田中委員長は逃げていたのだ。

 きょうの会談でも攻める泉田知事に対して田中委員長は防戦一方だった。泉田知事はヨウ素剤の配布、SPEEDIの公開など避難にあたって必要なものを求めた。田中委員長からは明確な答えが返って来なかった。

 田中委員長はノラリクラリとかわせるものとタカをくくっていたのだろうが、そうは問屋が卸さなかった。3年間、業を煮やし続けた知事が強烈なアッパーカットを見舞ったのだ―

 泉田:「田中委員長が『原子力避難計画を作ること自体は規制庁の仕事ではない』と発言したと承知している…(中略)…山谷(えり子・防災担当)大臣からも望月(義夫・原子力防災担当)大臣からも『(それは)規制庁の仕事なのでお伝えしておきます』言われている。このあたりの仕事は規制庁の仕事と考えてよろしいか?」

 田中:「いや、必ずしも私がここで一存で決められることではないので、検討させて頂く・・・」

 泉田:「(緊急時の避難作業において労働安全法と原子力災害対策指針との法整備が必要なので)勧告権の行使をしていただけないでしょうか?」

 田中:「いや、勧告権というのは、法的には私ども持っていますけど、やたらとそれなりに意味のある勧告でないと。勧告したけれども、勧告しただけでは私としても本意ではない」。

 田中委員長の答えは理屈になっていなかった。声はふるえ、時おり吃った。手は机の上でバタバタと躍った。明らかに狼狽していた。

 田中委員長にとっては途方もなく長い30分間だった。面談の後、泉田知事だけが、ぶら下がり記者会見に応じた。

 「勧告権をなぜ使わないのか、相変わらず分からなかった。必要なものは各省庁に勧告権を行使してほしい」。泉田知事は田中委員長の消極的な姿勢を批判した。

 筆者は質問した―「田中委員長の姿勢からは、原発を動かすことの危機感、万が一の事故があった時の危機感が感じられたか?」と

 泉田知事は次のように答えた―

 「規制委員会のミッションは何なのか? 制度設計をした際に規制委員会の果たすべき役割は国民の生命・安全を守ること。(なのに)住民目線というところのお話が必ずしも伝わってこなかったなというのが印象だった」

 「住民の健康を守るという視点で何が必要か、まず勧告を出すという姿勢がないと。政府から独立して勧告を出すという本来の役割が果たせないんじゃないか。規制委員会は独自の立場で言えるという事でないと保安院時代と変わらない」。

 7月29日、山本太郎議員が国会で弾道ミサイルが原発を直撃した場合の被害を質問したところ、田中委員長は「(そうしたことは)規制にない」と答弁した。この問題について筆者は知事に聞いた。

 泉田知事が明快に答えた―

 「政府部内を規制委員会がしっかり統括するしくみができていない。原発が攻撃されたらどうなるかという被害想定を外務省が過去やっている。内部文書も存在している」

 「田中委員長が知らないということであれば、日本の原発の安全性の確保というのは、一体どうなっているのか?」

 住民の安全を第一に考える泉田知事と見切り発車で原発を再稼働させた田中委員長の初顔合わせ。この会談で原子力行政のいい加減さがモロバレになったことは、じつに“有意義”だった。

 ~終わり~

 ※
正式名称は「全国知事会危機管理・防災特別委員会委員長」。

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浜離宮の池ではエイが泳いでいることがあるとか。
池で見られたのは蟹とフナムシ。
2015年8月16日撮影。

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近くに止まっているのはアブラゼミばかり、上の方ではツクツクボウシやヒグラシも鳴いているのだが。は
ハエトリグモは小っちゃくて、素早いロボットみたいに動いて、困った虫を捕まえてくれます。
2015年8月56日撮影。

http://www.hazardlab.jp/know/topics/detail/1/0/10709.html

佐々木伍長の戦果


第一回出撃:1944年11月12日出撃4機、護衛戦闘機20機、レイテ島沖で揚陸船に爆弾投下するも失敗。ミンダナオ島経由で帰還。
第二回出撃:1944年11月15日出撃4機、護衛戦闘機8機、雲に阻まれ集団行動できず作戦中止。
第三回出撃:1944年11月25日出撃2機、護衛戦闘機8機、離陸直前にアメリカ軍の空襲に会い、中止。隊員にも戦死者。
第四回出撃:1944年12月4日出撃1機、護衛戦闘機2機、敵戦闘機に遭遇しネグロス島経由で帰還。このころ前線の航空隊では佐々木伍長のことがうわさとなり人気者に。
第五回出撃:1944年12月5日出撃1機(ただし鉄心隊3機と編隊で出撃)、大型船1隻撃沈、ミンダナオ島経由で帰還。
第六回出撃:1944年12月14日、離陸のため滑走路に入ったところ、尾輪の整備不良で滑走路を外れる事故で、出撃中止。
第七回出撃:1944年12月16日、他部隊2機と、ただし別動で単機出撃、護衛なし、米軍上陸地点で無数の艦艇を発見するも、むなしくばかげていると感じ独断で引き返す。
第八回出撃:1944年12月18日、他部隊数機と出撃、エンジントラブルで引き返す。
このころ、公式には2度も戦死したことになっており、金輪際殺されてたまるか。その代り、するだけのことはしてやる、と不屈の闘志をかきたてた。
第九回出撃:1944年
会敵せずに別島の飛行場に対比後、吉飛行場に帰還の際に豪雨位見舞われ田んぼに不時着し機体大破。これ以降登場する飛行機がなくなる。

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今日は8月15日。
昨夜14日に、「スーパーJチャンネルスペシャル 終戦70年特別企画 いま、言い伝えるべきこと」を放送していました。
残念ながらテレビをつけた時は途中だったのですが、そのいちタイトルに「還ってきた軍神~知られざる陸軍特攻隊」がありました。(http://www.tv-asahi.co.jp/sengo70/#menu05)(http://www.tv-asahi.co.jp/pr/sphone/20150814_03620.html

「帰ってきた軍神」、陸軍航空隊最初の特攻隊万朶隊(ばんだたい)の佐々木友次伍長、フィリピンで戦い生還した、北海道石狩当別町出身の方で、なんと92才で御存命でインタビューにまで答えておられました。

昨年、高田馬場の古本屋で偶然手にした「高木俊朗著、陸軍特別攻撃隊」、私にとって近年、知らないことを最も教えてくれた本でしたが、その中の重要な登場人物の一人が佐々木伍長でした。
著者の高木俊朗は従軍記者として東南アジア方面へ従軍した経験を持ち、本書は、佐々木伍長ほはじめとする当事者や関係者に綿密な取材をおこなって書上げています(1998年没)。

特攻隊員が戦ってどうして生還?と誰しも不思議に思うでしょうし、おそらく番組では十分に説明されていないと思うので補足します。
「高木俊朗著、陸軍特別攻撃隊」によれば以下の通りです。
万朶隊(ばんだたい)は陸軍航空隊で最初に結成された特攻隊で、双発の九九式軽爆撃機(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E4%B9%9D%E5%BC%8F%E5%8F%8C%E7%99%BA%E8%BB%BD%E7%88%86%E6%92%83%E6%A9%9F)部隊でした。
特攻を命ぜられるまでは、敵艦船攻撃のための厳しい爆撃訓練を行っていました。
隊長の岩本益臣大尉は、訓練していた爆撃方法に自信を持っており、特攻には反対でした。
特攻機は爆弾が搭乗員の手では落とせないように改造されていました、出撃したら体当たりして死んで来いと言うことです。
このことに憤慨した岩本大尉は、特攻が実行されるフィリピンに進出してから独断で整備兵にたのみ、爆弾を投下できるように機体を改造します。
このために、出撃しても特攻せずに通常攻撃をして帰還できるようになり、佐々木伍長は9度も出撃しながら奇跡的に生還できたわけです。
岩本大尉のなかば命令違反の改造のおかげで、佐々木伍長は生還できたわけで、番組でも岩本大尉と佐々木伍長の絆を強調していました。

なお、通常、爆撃機は着陸時に危険なため、残った爆弾は全部海上等に捨ててから着陸します。
特攻といえども、エンジントラブル、敵を発見できず、あるいは途中で敵戦闘機隊に出くわすなどの理由で、引き返さざるを得ない場合がありますが、爆弾を落下できないように改造されると、そういう状況でも無駄死にする危険にさらされるわけです。
特攻自体も無謀な戦術であることは言うまでもありませんが、技術的に見ても、現場を知らない中枢のエリートが卓上で考えた戦術でした。

最初の出撃前に、悪名高い富永司令官の無意味なセレモニーに参加するためにマニラに飛んだ、岩本大尉以下、士官(少尉以上)全員搭乗の機体がアメリカ軍戦闘機にマニラ上空で撃墜され、全員殉職し、佐々木伍長ら下士官(伍長から曹長)だけが残されます(士官と下士官の違いは今の役人に例えると、キャリアとノンキャリアだと思います)。

特攻を生き延びた経緯は、最後の出撃で会敵せず帰還の際に、着陸できないほどの豪雨に見舞われ田んぼに不時着して飛ぶ飛行機がなくなってしまったためです。
最後の出撃までに、佐々木伍長は、2隻の敵艦船を撃沈または大破しています。
出撃の度に岩本大尉以下士官の遺骨を搭乗させ、士官の数だけ敵艦を沈没することを目指していたそうです。
無念にも作戦前に戦死した士官の分まで戦果を挙げるまでは死なない、という覚悟で戦っていたのです。

生き延びた特攻隊員は、死にぞこないとののしられ、どの部隊からも見放され、終戦までルソン島の山中で自活しました。
ほぼ同時に結成された富嶽隊(フガクタイ)にも同様の理由で生存者がおり、かれらも同様に扱われました。
特攻隊員は最初の出撃は、おだてられたきつけられて見送られますが、戻ってくると、卑怯者となじられ、次は必ず死んで来いと邪険に扱われるようになりました。
そのありさまは、本を読んでいても怒りがこみ上げてきます。

フィリピンの特攻隊は連度も高く、戦場も比較的近かったため、佐々木伍長以外も、会敵せずの理由で戦死する前に何度か出撃を繰り返しています。
沖縄戦の特攻になると、戦場が遠く燃料は片道分、隊員の技量は飛ぶのがやっと、機体も練習機までかき集めたひどい状況で、完全に片道切符になりました。

合掌

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2015年8月14日撮影

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2015年8月10日、12日撮影

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